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 Naoko Watanabe

『名前のない色-The Unnamed Color-』

 07−25 November 2017

「名前のない色」とは、人が日々出会う認識の対象を、先入観や既存のものにあてはめること から解放し、「存在のありのままに向き合う」ことの重要性を提示するものです。光によって 揺れ動く色のきらめきや、色と色の中間に存在する色の在りようをありのままに受けとめる時、 観察者は絵画が単に観るものではなく、身体で経験し知覚するものであることを認識します。 「世界を自己の身体で受け留める。魂がここにあるという感覚に触れることができる。」

誰もがアートを通じ、生きるよろこびを実感する場の生成に立ち会いたいと考えています。

今回の「名前のない色」というタイトルは、『ものの見方=関係性』を見つめ直すためのひ とつの提案です。「名前をつける」という行為によって人々にもたらされるものは何なのでしょ うか?すべてのものに名前をつけなければならないのでしょうか?その名前を呼ぶことに意味 はあるのでしょうか?

名前をつけた瞬間に、そのものが、「ある世界にとらわれてしまう」ことは、とても残念で す。アートとは自由であり、斬新なものです。私は、現代において「観る自由」を得ることが、 他者との自由で寛容な関わりをもたらすことにつながっていると考えますが、同時にそれはそ んなに簡単ではないことも知っています。人がいつからか、他を批判的に名付けることをし始 めたのだとしたら、そこからすべてを解放し、寛容さによって本質的で革新的なものに導くこ とができるのはアートの力だと考えています。

アメリカの画家、バーネット・ニューマンは「色は画家がつくりだすものだ」という言葉を 遺しました。ニューマンの言葉に込められた「色」には、単に物理的な色彩の問題を超えた複 雑な課題が含まれ、それらを表現として昇華する可能性を示していると言えます。ニューマン が「Who’s Afraid of Red, Yellow and Blue?」を描いた時代から70年ほどの歳月が経ち、世 界はより混沌さを増し、異質なものや多様な理念が衝突し、拮抗し、ときに混ざり合いながら、 流れ過ぎていきます。人々が自分にとって大切な一瞬間を掴むための選択や決断をすることさ えもときに困難であり、流動的なるものに身を任せながら日々を過ごすことへの不安感が顔を のぞかせることもしばしばあります。このような現在と将来に生きる世代の画家として、私は 絵画に何ができるのだろうと考えます。ただ、私は画家として、絵画がもたらす世界の変容を 知っています。絵画のみに存在する色彩の魅惑的な美しさを創造し、絵画言語を構成する楽し みも持ち合わせ、自分自身が新たな世界を生み出すことができると信じています。

近作のコンセプトは「対比における共存」と、絵画と絵画の前に立つ人〈観察者〉との「触 れる、触れられる」関係を、「線」の表す領域の広さと、油彩の光沢のみずみずしさ、筆あと や絵の具の厚みがイメージさせる身体的所作の艶かしさによって構築することです。

「対比における共存」とは、相容れないものや拮抗するものが一瞬間を共有するときに現れる 関係性を示しています。「支えるものと支えられるもの」「骨と皮膚」「かたさとやわらかさ」 「建築と肉体」など、対比によって浮かび上がるその存在意義や美しさを表現しています。

普段、絵画や美術に接する機会のない方にも、ぜひご覧いただき、気軽に絵や色を感じる楽 しさや自由を味わっていただければ幸いです。また、本展が、絵画を通した開かれた対話の場 になることを心から願っています。

2017年11月7日 渡邉 野子 (画家・美術家)

 

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 絵画の前で-O/In Front Of The Painting - O

2003, 30 x 30 cm, 油彩、アクリル、紙 / oil, acrylic on paper

Toward the Rainbow

虹に向かって /Toward the Rainbow

2006, 259 x 194 cm, oil, acrylic on canvas

 

  私の抽象的作品のスタートは京都芸大時代の「9SQUARES」という一連のシリーズである。「安定性」の象徴であり、すべての「基礎」となる構造-スクエア-に、「動き」という対比的な考えを持ち込み作品を成立させた。ひとつのスクエアが起点となり動き始める。拡散したり、収斂したり、絵はどちらかの作用が大きいと、その方向に進もうとする。私は作品にそのどちらの状態も持ち合わせるようにさせたかった。それが9つのスクエアの構成である。金剛界曼荼羅の構造にもあるような3×3の井桁状の構成は、画面の平面状を循環する印象があるかもしれないが、私にとっては形とそれ以外の空間や、画面の内と外を自由に行き来しているように見えた。堅牢であり、なおかつ常に動き続けているようなかたちに、崇高的な美を感じていた。そこから10年ほどの展開のなかで、特にドイツからの帰国後、私は自己の絵画の「線」によって観察者と絵画のあいだに「触-touch-Berührung」の関係を構築したいと考えていた。

 私は作り手なので、描くとき常に作品に接している。絵の具のやわらかさとかたさを感じ、筆や指、手のひらにつけた絵の具を画面に留めていく。ときに近づき、ときに離れて。画面のなかで、今何が起こり、これから何が起こるべきかを考えている。観察するというより「線を聴く」のである。常に耳を傾け線を聴く。それは身体と絵画との会話以外のなにものでもない。

このように書くと、特に抽象絵画は作家の情動や感情、主観的思考や身体性の表出と捉えられることがあるが、絵は、作家個人の自己実現やモノローグではない。絵は客観的に認識することができるものであり、それが絵の持つ自由であり、本当の意味での大衆性だと私は考える。絵は何かを説明するものではない。だからこそ、絵の要素によって、観察者が自由に絵に向き合い、自己を発見し、新たな価値を見出せるものでなくてはならないと考える。私の絵がそのような場になることを願いながら制作をしている。ゲアハルト・メルツは「最近なげかわしいことのひとつは、作家が絵に向き合う時間が非常に短いことだ。作家は自分の絵を見ていない。」と言った。観察者にも同じことが言えるだろう。価値の定まらないものに対して向き合うことが寛容さの第1歩である。

 

私の制作テーマのひとつは、絵画における「線の表す領域」によって、観察者が自身の身体、時間、空間のふくらみなど、不可視のものの在り様を知覚することです。画面上で線はそれぞれに役割を与えられ、時系列的な層でなく、お互いが交差し絡み合いながら全体としてひとつの連続した状態を生み出しています。絵画が示すもの、それは何かが崩れる前の一瞬間や未完の絵画の歴史です。そして、振動するのは崩れゆく事物や移ろう時間ではなく自身の身体であり、不安定な私達の身体を前にして、絵画は「ここ」と「いま」を提示しながら私達に触れています。世界のすべてが変化しても変わらないものを絵画のなかに表現することが私の関心事のひとつです。

場所 :

 

〒 604-0086

京都府京都市中京区中之町73-3

最寄りの地下鉄駅は丸太町駅の2番出口です

 

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