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秋田 京花

すべての見えない光

2021 年 6月 20 ー 28 

強い太陽の光が降り注ぐ中でフラッシュを焚き、シャッターを押すと、普段自分たちの目では見ることのできない光の柱が出現することに気がつきました。夫のポートレートを撮影していた時のことです。被写体の顔が消えてしまっている時点で、ポートレートとしては不出来なものかもしれませんが、強い光に光を返すことで、目では見えない何かが出現すること、その現象そのものが私にとって新鮮な、興味深い体験でした。

 

 顔の見えない夫のポートレートを眺めながら、私はぼんやりと母のことを思いました。光に顔を奪われた夫の姿は、もはや性別も年齢も存在しない、知っているようで何も知らない人のことを思わせました。私が1歳になるまでに両親が離婚し、父親に引き取られ、それ以来母に一度も会ったことがないために、私は母の顔を知りません。母の写真も処分されたため、一枚も残っていません。

 顔のないポートレートに写っている人、それが今の私の唯一の家族であること。家族写真という点では、そこに立っているのが母でもおかしくなかったこと。全く別の人でもおかしくなかったこと。どれだけ写真を撮り続けても、恐らくこの先母の顔を知ることも、写真に収めることもないこと。

 

 ほんの少しの偶然が重なって立ち上がる一枚一枚の写真と、そこから取りこぼされる時間、その中にしか存在し得ない人。これほど膨大な量の写真が溢れる時代に、母の写真一枚持っていない私は、母の存在と、その母から自分が生まれてきた事実そのものをどのように理解すれば良いのかと、戸惑いました。何かを見るということは、恐らく、何かを見逃すこととほとんど同義であるのでしょう。写真として拾い集めることの叶わなかった時間や、人は、どこかへ消えてしまうのでしょうか。

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 近くに潜んでいながらも目では見ることのできない光、物理的な(あるいは時間的・精神的な)距離があるが故に決して見ることのできない光、すべての見えない光のことを思いました。

 目では見ることのできない光を、存在しないと言い切ることができるでしょうか。もしそれができるのだとすれば、顔の知らない母から生まれた私の身体など、今ここに存在してすらいないと思うのです。

 
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  写真を用いた表現活動をしています。写真を撮る中で、私とあなた、見えることと見えないこと、生きることの痛みと喜びなど、ともすれば相反するものとして布置されてしまう物事が、対立することなく、ひとつのイメージとして立ち上がる喜びを糧に制作しています。作品を制作し、発表し続けることで、思考や表現が広がり続けることを目標にしています。

   秋田 京花

 1995 福井県生まれ

 2019 神戸大学大学院 人間発達環境学研究科 博士課程前期課程 中途退学

 2020 京都市在住